昭 和
昭和レトロ
ここ最近、「昭和レトロ」と言う言葉を耳にする機会が増えたように思います。若い世代にとっては、昔の話。となってしまったようです。私は、昭和の中ごろに生まれた、ど真ん中の昭和世代です。若いころを思い出して、懐かしさを感じます。レトロと言われるのは違和感を感じる世代です。
田舎に工場
私の小学校入学時、木造校舎が鉄筋コンクリート造りで新築されました。小学校に入学して数年後、田舎にも拘わらず近所に食品加工場が建設されたのですが、その工場廃液が、学校の前の小川に流入し、あっという間に水質汚濁が広がりました。
今思えば、地元の作物であるサツマイモを原料にした澱粉工場で、地元の農家にとっては救世主と感じられたのではないでしょうか。考れば、当時は、環境よりも経済優先の時代であり、廃水に関して今では考えれらないほど規制が甘かったのだろうと思います。廃液をため池に流し込み、そこを溢れた廃液は小川に垂れ流されていました。澄んだ水が流れる小川が一変してしまうには時間は必要ありませんでした。石には藻のようなものが付着し、川の流れに揺れながら、だんだん成長していきました。
高度経済成長の波
当時、私の家は農家でしたから、当然サツマイモを栽培しており、収穫したそのサツマイモを工場に売って現金収入を得ていた。と記憶しています。日本の高度成長の波が、田舎にまで押し寄せてきた時代なのです。自動車が、砂埃を上げて田舎道を走り、道路わきの草木の葉が真っ白になっていたのも、ちょうどこの時代からです。
小中学校時代
当時の小学校は、1クラス30名ほどの生徒数で、全校生徒数は約300名程度でした。そして、中学校は、同じ町内の別の小学校の生徒と合わせ、こちらも300名程度の生徒数だったと思います。ところが、今は全校生徒数が激減しているようです。若者が少ない結果だと思います。だからこそ、若者が住める環境を作る必要があるのです。当時、数キロを歩いて通学し、友人らと語り合ったことは今も懐かしい思い出なのです。
社会人
その後、佐世保市の工業高専に進学、一年留年しましたが、何とか卒業しました。それで、勤務したのは、当時としては最新鋭と言われた松島石炭火力発電所でした。排煙脱硫装置や排水処理など、発電周辺機器の運転や保守を担当する企業でした。15年ほどの在職中、様々な経験を積む事が出来ました。それらの経験を活かし、難易度の高い国家資格を取得することができました。その事が転機で、これで世間に出ても通用すると大きく勘違いしたのが第一の誤りでした。さらに、このままでいいのか?と、将来への希望が持てないモヤモヤとした感情が沸き上がったのが第二の誤算でした。そんなことで、お世話になった企業を退職を決意しました。
転職
一般の企業に就職しましたが、想像との違いに数年で2社ほど転職。それでも気分が晴れることはありませんでした。そんな時、新聞広告で見つけたのが生命保険代理店募集の広告でした。初期費用も不要でスタートできる。決め手は、ただそれだけでした。サラリーマン生活を捨て、自営の道に飛び込んだのです。理系出身で、且つ営業の経験は全く無い状態からの出発でした。生命保険の営業をスタートしたのですが、当然ですが、当初は成績もパットはしない状態でしたが、徐々にコツを掴んで、継続する事が出来ました。結果的には、約30年近く営業継続し、2024年6月に営業権も全て譲渡して、再出発をしたところです。
希望
年齢も60代半ば、まだまだやれると信じています。以前、テレビで、某企業の経営者が営業社員に叱咤激励している様子が放送されたのを思い出しました。「売って来い!売れるモノなら営業社員は不要なんだから!」と。今思えば、完全にパワハラでしょう。ですが、昭和の感覚では、それが普通の世界だったのでしょう。「売れるモノなら社員はいらない」。もしも、今の時代に顧客がこれを聞いたなら不買運動が起こる事でしょう。「モーレツ社員」と言う言葉も、分からない人が多いんでしょうね。そんな「昭和」ですが、今より人情味があったのも確かです。どちらが良いでしょうか・・・?
こんなきれいな花ならね~
セイタカアワダチソウもそこそこ綺麗ですけどね・・・邪魔ですね。